2016年2月26日金曜日

勝新太郎

「どいつもこいつも謝ってんじゃねえぞ、コラッ!うつむいてばかりいやがって。生きてりゃ火の粉が飛んでくるだろう。そういうもの蹴散らしながら、七転八倒で闘うのが、男というもんだろうが。すみませんで簡単に安い頭下げて、楽してんじゃねえ。意地張ってろ。そうすりゃ、もっと深みに嵌らあな。どんどん嵌って落ち込みゃ、そのうち底に足が着くわな。それぽんと蹴って上がってくりゃいいのよ。どの道いつかは死ぬんだから、男ならそういう景色見てこいよ。この馬鹿たれが!」
閻魔の横で怒ってそうだ。1997年没、65歳。



0223 shintaro katu

2016年2月25日木曜日

嫉妬

この感情は厄介だ。どの世界にも上がいる。その才能へのねたみひがみ。うんと上ならば、むしろ嫉妬の対象ですらなくなって、吹っ切れるかもしれないが、自分と同等のものが、世に受け入れられて風靡しているような状況になると耐え難い嫉妬の炎に焼かれることになる。芸能の世界、学問の世界、スポーツの世界、会社組織だってそうだろう。この感情はうまく制御できたらエネルギーになるが、たいてい湿っぽく燻って不完全燃焼を起こす。
芸術はそれぞれが別個性別世界なので、「人は人」と超然としていられるといいのだが、やはりそこは人、なかなかそうもいかない。輝く才能、恵まれた状況見ると、つい見比べて落ち込んでしまう。映画「アマデウス」でモーツアルトに嫉妬したサリエリの姿が描かれたが、これは映画の中の話。自尊心があるから通常、露骨には表に出てこない。「☓☓君の能力には嫉妬すら覚えますよ」などと公言できるときは、すでに嫉妬でもなんでもなくなっている。



0222 a girl

2016年2月24日水曜日

梅に鳥

さりげない香り。ああ、梅のかおりと思って花に寄っていっぱい吸い込むと消えている。意識を傾けないでいるとふと香る。追いかけると逃げる、背中を向けるとついてくる。誰かみたいだ。里山の梅がいま盛りを迎えている。
下は画眉鳥(がびちょう)。ここ丹那の山でも随分増えた。陽気でおしゃべりな鳥で、囀りを聞いているとこっちまで楽しくなってくる。これも誰かみたいだ。目の周りの白い縁どりが特徴で、ペット用に持ち込まれたものが放鳥で繁殖したのではと言われている。



0219 gabityo

2016年2月23日火曜日

ひとりごと

「つまらない男がふえたよね。みんなペコペコ謝ってばかり。意気地がないっていうか、器が小さいっていうか。え?誰のことでもいいじゃない。そんなのばかりよ。情けない。だからどうしたって開き直れば、まだ恰好つくのにね。そんなに世間が怖いか!ちっとは芸術家を見習ってほしいわね。ちょっとアンタ、ちゃんときれいに描けてんの。ねぇ」



0218 a woman

2016年2月22日月曜日

雪あそび

今回、新しい紙と炭を使用する。紙はフランス製の木炭紙。炭はカバ材。両方とも知人からいただいたもの。紙はこれまで使ったものの中では一番硬い印象。木炭専用紙なので、炭の付着がよくなるように表面の凹凸が強めで、まるで柑橘類の地肌のよう。その分、炭の滑りは悪くなり、ボカシも伸びない。カバ材も初めて使ったが、これも硬めの炭で、この紙と炭の組み合わせは、凍りついてザラメになった雪の表面に、ざくっざくっと足跡を刻む感じに似ている(実際そんな音がする)。線を引いて、伸ばして面をつくってというよりも、紙の面に炭の粒子を打ち込むような感覚がある。以前の紙が水彩画なら、今度のは油絵。絵筆で色を置いて、また上から重ねて、厚みをつけて、筆圧も高めでと、まるでこれまでと勝手が違うのだ。紙との格闘感があるから、その手応えが面白い。いっぽう、細部など、思うように描けず難しさを感じる。



0216 a Japanese woman

2016年2月19日金曜日

絵のちから

こんな地味ぃ~なブログでも時々海外からの閲覧がある。言語に左右されないという絵ならではの面白みとネットのチカラというやつを改めて思う。あらゆる属性(国籍、性別、宗教、年齢、文化など)を超えて一発で伝えられる、というのは考えてみればすごいことだ。説明不要。話が早い。絵は世界に開かれた便利なツールなんだなあと。
妄想だが、海外へ行って「お前は何物だ?」と聞かれたときに、「これだ!」と言ってタブレットでこのサイトを見せれば「わお!お前はアーティストなのか」となって「まあ、そんなもんだ」みたいに答える気分はどうだろう。悪くないな。日本だとうつむいてしまうが。きっと「ジャパンでは有名なのかい」と聞くだろうから「ああ、たぶん千年後にはね」と言ってやろう。本当、妄想は誰にも邪魔されないから伸び伸びと楽しい。



0215 a girl

2016年2月17日水曜日

芸術家のうた

芸術こそ人間が一生を捧げるにふさわしい、崇高にして究極の対象だという考えがある。社会の規範、あらゆる価値観や道徳にも左右されない、人間精神の解放の場が芸術なのだ、と主張する。だから、みんなが思ってる以上に芸術家はスゴイのだから少々のことは大目に見てね、という甘えも感じないわけではないが、多少なりともこういう考え方が、ふらふらで倒れそうな芸術家を支える矜持になっていたことは間違いないと思う。「ぼろは着ててもこころのニシキ」なのである。

ぼろは着てても こころの錦
どんな花より きれいだぜ
若いときゃ 二度ない
どんとやれ 男なら
人のやれない ことをやれ  「いっぽんどっこの歌」 星野哲郎 作詞



0210 a girl

2016年2月16日火曜日

日本変人列伝七 永井荷風

文人は変人の宝庫。まともな人のほうが少ないと思うほど。考えてみれば、文芸などという世界は、あっちこっちの人格に入り込み、じめじめした内面や人間性の襞に分け入り、それを暴いて作品にする仕事、多重人格にして露悪趣味でないと務まらない。自我が強烈だから周囲との衝突も激しい。

永井荷風。徳川家に仕えた武士の家系、父はエリート官僚、その長男に生まれる。子供の頃から英才教育。漢学、絵画や書を学び、将来は実業家として一家の名誉継承を嘱望される。多感な十五の歳に病気をして休学。その際文学に出会う。これがいけなかった、とは後になっての本人の述懐。父は何とか息子の軌道修正を図ろうと海外留学させるが、すでに本人は文芸の虜になっており、帰国後「あめりか物語」「ふらんす物語」などを発表。創作の世界への傾倒が始まり、やがてもう「どうにも止まらない」状態となる。

父の死後、抑えられていた自我が暴走。遺産は長男特権で独占、意に沿わない形で結婚していた商家の娘とは離縁し芸妓を入籍。しかしこれもほどなく離婚。その後は銀座や浅草の花街通いを繰り返し浮名を流すが、創作熱はますます盛ん(のち文化勲章受賞)。晩年も一人住まいの自宅から風俗街へ繰り出す生活が続いていた。最後はゴミ屋敷同然となった自宅で死去。今で言う「独居老人の孤独死」の状態で発見される。79歳。常に持ち歩いていたバッグには今の貨幣価値で三億円相当の財産(通帳や権利証、現金など)が残されていたという。



0208 kahuu nagai

2016年2月15日月曜日

週末に葛西善蔵の作品を読み返してみた。ほぼ四十年ぶり。「子をつれて」「兄と弟」「贋作」などの短編。本人の等身大かと思われる主人公は三人の子供を抱え、創作活動と実生活の困窮の狭間で苦しむ。家の追い立てをくったり、親族や妻の実家に支援を要請したり、金策に悩み行き詰まっていく様子が息苦しく綴られる。冷たい雨が路面をうつ夕暮れ時の街角、ひとりの男が肩を落とし足元を濡らしながら、とぼとぼと薄墨色のもやの中に消えていく…そんな暗い絶望感が漂うエンディングばかりだ。重い。すっかり毒にあたってしまったようだ。



0204 a man

2016年2月10日水曜日

崖っぷちの花

「貧困・病気・酒乱」は多くの悲劇や破綻を生む背景の典型であるが、時に人生の過酷は輝く芸術の源泉にもなる。生のぎりぎりまで追い込まれた人間が、一本の筆にすがるとき、そこに表現が生まれる。最早、創作以外に自分が立つ場所がない。自分ひとりで、誰の支えもなく、やっていける最後の場所。ふつうのひとがふつうに営むふつうの生活、人と人が関係しながら生きていく実社会、そこからはみ出さざるを得ないひとたちに残された浮世の崖っぷち。この種の人たちにとって創作は、破滅の直前に、神様が用意してくれた最後の逃げ場なのだ。

芸術の花は決して豊穣な土からは生まれない。



0203 a woman

2016年2月9日火曜日

日本変人列伝六 葛西善蔵

青森出身の小説家。「二軒長屋の西側の、壁は落ち障子は破れた二間きりの家の、四畳半の茶呑台の前に坐って、髪の伸びたロイド眼鏡の葛西善蔵氏は、綿のはみ出たどてらを着て、前かがみにごほんごほんと咳ながら…」と嘉村礒多が描いたように、彼もまた貧困と病気に攻め立てられながらの、凄まじい創作活動のひとだった。青森に妻と三人の子供を置いて東京へ遁走、東京でも別の女性に二人の子供を産ませている。
いよいよ死の前日、枕頭に集まった人たちに酒をふるまい、自らも吸飲みで酒を飲み、不明瞭ながら在世中の謝意を述べたという。まるで絵に描いたような、凄絶無惨な破綻生活を地で行った作家で、加えて酒乱、肺病、奇行と、負の要素が満艦飾。こうした生活の実体験から生まれた「私小説」には、妙な毒味があって、惹きつけられる。「文芸の前には自分は勿論、自分に附属した何物をも犠牲にしたい」とは葛西の決意のことばだが、彼は本当にそれを実行した。41歳没。代表作に「哀しき父」「子をつれて」「酔狂者の独白」など。



0207 zenzo kasai




2016年2月8日月曜日

日本変人列伝五 種田山頭火

尾崎放哉と並ぶ自由律俳句の巨星。裕福な地主の家に生まれたが、のち零落。始めた書店も失敗、上京して図書館に勤めるも、病気退職。九州で出家して托鉢乞食僧で生をつなぐ。尾崎放哉の死後、自身も九州から全国各地を西へ東へと漂泊。最後は松山の地で1940年永眠、57歳。妻子との離別、自殺未遂事件、無銭飲食による警察沙汰、酒に溺れ病気と貧困に喘ぐ生活など、その生は常に破滅的であったが、生涯8万句以上の作品を残す。彼の作品や才能を愛した人との知遇を得、こころの中は知らず、死ぬ間際は孤独ではなかった。

やはり彼も創作あればこそのひとだった。普通のまっとうな生活を営む能力に欠けた自らをなまけもの、わがまま、きまぐれ、虫に似たりと自嘲している。

「分け入っても分け入っても青い山」
「まっすぐな道でさみしい」
「うしろ姿のしぐれてゆくか」 (山頭火)



0205 santouka

2016年2月5日金曜日

日本変人列伝四 尾崎放哉

山頭火とともに漂泊の俳人と呼ばれる。一高(東大)卒業後いったん会社勤めをするが、子供の頃から読書や俳句に親しんだ繊細な文学青年は組織社会に馴染めず、酒癖の悪さも重なって退職。数度転職したが失敗し、ついに実社会からドロップアウト。その後各地を托鉢放浪し、寺に寄宿しながら句作に励むも、泥酔して追い出されたり、寺の内紛に巻き込まれたりで落ち着かず、しだいに肺の病気も悪化。最後は「海の見えるところで」と小豆島の寺に辿り着き、八ヶ月足らずの孤独な生活の果てに1926年死去。41歳。最期を看取ったのは隣家の老婆ひとりだっという。孤独と病がひっそりと寄り添う流浪生活のなか、三千句の作品を残す。吉村昭が「海も暮れきる」で尾崎放哉の日々を描いている。

創作はある種のひとにとって最後の逃げ場でもある。娑婆に居所なく、もはや創作以外に退路を絶たれしものの吹き寄せられるところ。

「咳をしてもひとり」(放哉)



0202 a woman





2016年2月4日木曜日

芸術家が笑うとき

技術革新によって10年後には消える職業というのがオックスフォード大学の教授から発表されて話題になった。タクシードライバーやレジ係、銀行窓口、法律や税務関係の専門家といった機械操作系、知的生産系の職種はどんどん人工知能に置き換わっていくそうだ。生き残るものでは小学校の先生、医師・看護師、聖職者、心理カウンセラーなど微妙な対人スキルが要求されるものがリストアップされている。鍵になるのが「人間性と創造性」。人間でないとできない柔軟な対応や思考、プログラムからは生み出せない創作的活動は、ロボットも容易に踏み込めない人間の聖域になるのだろうか。

芸術家が、人工知能には生み出せないものを生み出す能力があるという、ただそれだけの理由によって尊敬される時代がくるか。それとも絶滅危惧種に陥るか。結局、今も昔も、感動を生み出す創造者としての芸術の未来は明るく、それができないものは朽ちてゆく。この原則だけはこれからも変わらないだろう。感動と無価値、その間を芸術家は漂い続ける。



0127 a woman

2016年2月2日火曜日

悪魔のささやき

陶芸家より画家がまし。画家より小説家がまし。となったが、いずれも創作の世界はしんどい。常に「こんなものじゃない。もっと上手くできるはず。もっとやりようがあるはず。もっと、もっと…」という自分の声に叩かれ続けて、休まる時がない。芸術家も霞を食って生きるわけにはいかないから、現実との折り合いも必要だ。本当はこういうものを創りたい、と思っても、客や市場の求めにも配慮しないといけない。不本意ながらも世に送り出すものも出てくる。求める理想の姿にはまだまだ力が及ばず、生涯得られぬ「完全!」の幻影を追いかける葛藤や悶々はどんなものだろうと思う。

それでも創作の道に生きる。やはり芸術の悪魔に魅入られたとしかいいようがないが、この悪魔、きっとこんな愛の言葉を芸術家の耳元に囁くのだろう。
「お前は天才だ」
「いずれ世界が喝采する」
「歴史に名を刻め」
だから耐えろ、手を動かせ、なのだ。骨になるまで囁きは続く。



0126 a boy