2016年9月30日金曜日

2016年9月初体験

よく降った。今日もまた雨らしい。9月も今日で終わる。この9月、生まれて初めて入院というものを経験した。1日だけの検査入院だったが、絵にも描けない体験をした。手術室に入ったし、車椅子にも乗せられた。点滴下げて廊下も歩いた。病院では普通に見られる光景だが、自分がやるとちょっと誇らしげな気持ちもした。点滴スタンドを押しながら寝巻き姿で1階まで降りると一般外来があるが、「ほらほら見てよ。オレ入院だよ。そこ通してくれる」みたいな、外来患者より一段上にいるような気になった。あれは何だったのだろう。
病院は外界とは違う不思議な世界だ。本人確認のために、検査や投薬のたびに「お名前と生年月日」を言わされる。単なる情報処理のタグ扱いだ。看護師や担当医が向こうからやってきて気遣われ、上げ膳据え膳で遇されるかと思えば、検査室内では医師や助手のいいなりで、完全に物体になったような思いにさせられる。デリカシーなどという曖昧・複雑なものはここでは無視される。局面ごとにポジションが上がったり下がったりで、定まりがない。本格入院となると病気の名前や程度ごとに患者のヒエラルキーもあるのだろう。
今回は「チラ見」だったが、病院という不思議ワールドの一端を見た。もう見たくないが。


                        もう勘弁…
0927 old man



2016年9月28日水曜日

匂いの記憶

街なかを歩いていて、ふと漂ってきた匂いに昔の記憶が鮮やかに蘇ることがある。記憶を呼び覚ます匂いには色々あって、油や煙、ドブ、公衆便所といった悪臭の類いから、香水、食べ物、飲料、花などのよい香り、印刷屋、かばん屋、青果店などにある商売特有の業種臭もある。最近は感じなくなったが、役所や郵便局には特有の匂いがあったし、家電店には機械臭が漂っていた。職員室の匂い、体育倉庫の匂い、講堂の匂い、みんなそれぞれ違っていた。この記憶の再生がまた独特で、昔のある瞬間の、その時の映像や感情が、ナマナマしく飛び出してくる。どうしてこんなことを憶えていたのか、と不思議に感じるような片々たる記憶だ。
匂いの記憶は他の感覚器官とは情報処理の回路が違い、脳の記憶庫に直接焼きこむ仕組みになっているそうだ。思い出そうとして思い出すという意識的な記憶再生ではなく、瞬間的に蘇る感覚はこのあたりに理由がありそうだ。

あちこちの庭から金木犀の香りが漂い始めた。



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2016年9月21日水曜日

台風

寝ているあいだに台風は熱低になって行ってしまった。昨夜、雨戸を閉めると部屋は真っ暗。外の風の音も遠くなって、雨の様子も知れないまま早めに寝たが、朝、周囲の様子を見る限り拍子抜けがするほど影響なし。今日はしばらくぶりに青空が見れるか。少し薄日が射してきた。



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2016年9月16日金曜日

停滞

最近、意欲がわかない。ずっと天気も悪い。夏にも疲れたが、こう毎日どんより渋った天気も滅入る。季節の変わり目は体調もぱっとしない。ぐずついている。気分転換に映画「シンゴジラ」を観る。辛気臭いメンタルやストーリーものではないので2時間よいスポーツ観戦をしたような気分になれた。どの人物にも感情移入しないで、破壊と戦闘を傍観する。今回も無茶苦茶しよるなァ…と。政治家はそれほど苦悩しているように見えなかったが、その方がリアルなのか。



0903 woman

2016年9月6日火曜日

ほう…

自筆でものを書く機会が減っている。日常の連絡や通知はもちろん、会社の書類、伝票、スケジュール、メモ、年賀状など、かなりのことがパソコンやタブレットなどで片付くようになっている。あの人はこんな字を書くのか、たまたまナマの字を見る機会があって新鮮な驚きを感じることもある。一度もナマ字を見たことがない人も多い。字がヘタでもハンデになることも少なくなったので、習う人も減っていることだろう。ここ数十年で書の地位は随分失墜した。

ちょっと前まで書は人なり、教養の第一歩であり、嗜みであり、道であったから、よい字が書けることはそのまま「ひとかどの人物」を意味した。衣装を飾り立てて威を張るのは金があればできるが、内面の充実やレベルの表現に、書は大きくものを言った。

昨日、日本の書道をユネスコ文化遺産に登録申請するよう文化庁に要望書が提出された。



0901 man

2016年9月4日日曜日

静かな9月の日

あんなに喧しかった蝉も鳴かない。鳥の声もしない。今朝は妙に静かだ。人もみない。クルマもあまり走らない。祭りのあとのような、虚ろな9月の朝。



0831 man

2016年9月3日土曜日

絶食

季節に一回、年四回、一日だけの絶食をする。単なる胃腸休めで、始めて一年になる。最初は月一回にしていたが、副作用で頭痛が出るため、それが嫌でいまの間隔になった。初めてやったときは空腹感もかなり強く、翌朝の食事(薄がゆ)はなかなか感動だった。舌の味覚細胞への味の響きが違う。胃におさまってから消化吸収し、エネルギーに変換していく過程がじわじわ分かるほどの新鮮な体験で、からだがリセットされて、感覚も洗われたような感じがした。

今日はその絶食日。一日水だけで過ごすのが基本だが、頭痛対策で蜂蜜を舐めることもある。こういうことを何度かやっていると身体が適応するのか、初めての時の感動はもうない。生まれて初めて一日何も摂らない、この不意打ちをくらった時は体が緊急モードに入ってざわざわと反応したのだろうが、度々こういうことがあると慣れもでてきて、緊急対応から定期訓練みたいなものに格落ちするのかもしれない。ああ、例のあれね、了解、みたいな緩めの反応。

なんでも新鮮なうちが花ということか…


0823 woman